2009年7月1日水曜日

7月1日~慣れちゃえばいいのに~

 デジタルな形式知というのはかなり伝達や伝承がしやすい。自動車の運転や受験勉強の方法などはまったくのデジタル。世代を超えて受け継ぐことができるが、アナログの暗黙知だけは簡単に伝達や伝承などはできない。スタンダールの恋愛論は素晴らしい名作だが、かといってスタンダールの恋愛を現代のわれわれが簡単に継承できないのはやはり恋愛や友情などは究極のアナログのものだから。「わかってる」「わかってない」「伝わってる」「伝わっていない」というのは人間の感情そのものがアナログだから、100パーセント完全に伝えることなんてできっこない。

 だから…といって「伝えること」「表現すること」を諦めちゃいけないと思う。きっと100のうち1しか伝わらなくても、1を100回繰り返せば100の「思い」は伝わるはず。アナログな思いはやはりアナログに愚直に生きていくことと愚直に伝えることでしか伝承も継承もできないのだと思う。

2009年6月27日土曜日

6月27日~starting over~

 「新しい世界」が見えてくるのはとても嬉しいこと。ただし不安もたくさんでてくる。不安と期待の両方が入り混じる感じ=「新しい世界がより良いものでもあるし、より悪いものでもある可能性」。ただどちらにしても「今」から次の状態へまた状態遷移していく。


 マイナスに考えていくと「より悪い状態」を「さらに悪くするだけ」。プラスに考えていくと「より悪い状態」を「ちょっとより良く」変えていくこともできる。

2009年5月26日火曜日

inside out

 「どん底」状況での人間関係を大事にしろ…とはよく言われる。たしかに一定の所得やら社会的地位やらが一時的にどん底になった状態での人間関係はとても大事だ。なぜなら人間の最低限の「本質」に注目して交際してくれているのが前提だからだ。
 逆の考え方もある。とてつもなく「どん底」になると、自分自身のエネルギーが枯渇してどうしても「後ろ向き」の発想になってしまう…。後ろ向きで消極的 でネガティブな発想しかしない人間と、積極的に交際しようなんていう人はむしろ稀で、人間の内面が外側の人間関係に逆に反映されてしまう。

 最低の状況の場合でも交際してくれる人間(友人や家族や)はもちろん大事だが、そうした状況でも前向きな発想ができるようにしておくことも大事なんだろうと思う。

2008年12月27日土曜日

他人の評価が本当の評価

 人間だれしも自分が可愛いので、どうしても自己評価は客観的な評価よりも高くなる。一種の「うぬぼれ」ってだれしもあると思うのだが、そんなときでも自己評価の8掛けぐらいが大体世間相場ということになりそうだ。だれしも自分はsomethingではないかと思いたいのだが、どういうわけかそう願えば願うほどnothingになっていくんだなあ…。

 「愛」とか「真心」とか…抽象的で難しい。すべてが数値化できたならば…きっと味気ない世界にはなるかもしれないけれど、その分だけ「悲しみ」や「摩擦」などは減っていくのかもしれない…。だれもがその場その場で力を尽くしてはいてもやはり数値化できない部分で「行き違い」はどうしてもでてくる…。難しいなあ…。

2008年10月23日木曜日

他人との出会いは自分を知る手がかりとなる

 かつて日本ばバブル真っ盛りの頃、「数合わせ」のために、スタジオを借り切っての「合同コンパ」に駆り出されたことがある。バブルであるからして、学生といえでも全員ブランドもののスーツを着ている中で、私は一人ジーパンにTシャツ。しかもテニスはやるけれど軟式テニスだったし、スキーはやるけれどシュテムターンまで。スキーのロッジで男女の会話などするよりかは温泉でくつろぎたい…というタイプなので、いわゆる女子大生との合同コンパというのは非常に相性が悪い。
 しかも一番苦手なタイプばかりの(当時の)「バブル風色彩」のドレスで着飾った女性たちとの出会い。あまり楽しくない。

 しかしそれでも「場」の雰囲気からして黙っているわけにもいかないし、自分はどういう人間かということを最低限は周囲にアナウンスしておかなければならない。「数合わせ」で来た…と正直に語るのも悪くはないが、あまりに幼稚な対応であって、一応20歳を超えた人間どうしが貴重な時間を費やして集まった空間ということでそれなりにポジショニングをとり、「私は積極的にビンゴなどには参加しませんが、それはいろいろ理由がありまして」というのを暗黙のうちにアナウンスしておく必要性はある。また一応化粧などいろいろ手間をかけていらっしゃったであろう女性陣にも非常に失礼な話になるので、最低限の会話もこなすことが必要。その際、相手が自分を「ださいわね」(当時の流行り言葉だった…)と思っていようがいまいが、同じテーブルについて食事をしている以上は最低限の自己紹介も必要。

 ということで場違いでお金がもったいない会合ではあったがあれから○○年が経過し、一つわかったのは、やや苦痛ではあっても見知らぬ他人と会うことで「自分がどういうスタイルを通そうとしているか」「自分の長所はなにか」「自分の短所はなにか」と他人と自分を比較する一つの機会になるということだ。これって大事で、「場違いな場所」には最初から行かないにこしたことはないが、かといってそういう場所に遭遇したときには、「こういう雰囲気の中で自分について的確なアナウンスメントを出すには…」とあれこれ工夫をすることそのものはけっして無駄ではないということ。もちろんバブルの時代ははじけてしまったので、いまやカラオケが嫌だとかパーティが嫌だとかいろいろあるのだろうけれど、嫌な集会に参加しなければならないときにはそれなりに「自分をわきまえる場所」として学習することはできる。

 人に会わないですませる…というのも不可能ではない時代だが、しかし会社づとめをする場合には、個人のパーソナリティが人間嫌いだろうとなんだろうと集団作業を余儀なくされることに変わりはない。だったらむしろ積極的にそうした「場」を活用してみることを考えてみるのも悪くはない。

2008年10月15日水曜日

長いものには「巻かれたふり」をする…

日本社会として,長生きをしたければ「長いものにはまかれろ」ということになる。まさか与党政治家に正面きってたてついたり,キャリア採用の官僚に暴言を はくような社会人はあまりいないと思われるが,なんだかんだとはいっても,政治家もキャリア官僚も巨大な権力を持っているのでたてつかないほうがいい。

 長いものには上司と部下,株主総会での株主と取締役会といった力関係が如実に現れるすべての場面で「強いもの」が包含される。マスコミが揃った記者会見 で「ぶちきれるセレブ」というのも「長いもの」にはまかれてはいないが,そうしたマスコミを敵に回すような振る舞いが許されるセレブというのは私の知るか ぎりでは内田の裕也兄貴ぐらいのものやはり長い物に巻かれるに如くはない。

 とはいえ,心底すべて「まかれる」と理想やら理念やらもすべて崩壊してしまい,人間として大事なものを失ってしまうのも事実。この諺を実生活に適合して いくのだとするならば,「長いものには巻かれたフリをせよ」ということになる。表面的・形式的には頭を下げても魂までは売らなければいい…。大人の知恵であ ると同時に,現実の世界で生き延びつつ,さらに理想や理念を貫くのであれば,生活や人生のすべてまで長いものにはまかれちゃいかん…という法則だ。

プロセスの変更

同じような結果を何度も味わっているとそのうちに学習性無気力感という状態に陥り次第に勉強も努力もしなくなってくる。ということで勉強嫌いの人が増えて くるわけだが,そうしたときにはやり方(行動)を変えるというのが一番効果的。結果が安定してくると周囲も「○○ならばそこそここまではやるだろう」とい う予測が出てくるので一定の安定感も出てくる。一発逆転というのはビジネスでも学習でもちょっとありえない。安定した結果を出すにはやはりプロセスを変え ていくのが一番で,プロセスそのものが理解できていない場合には,達人からやり方を教えて貰うのが一番だろう。最善のプロセスを教わったのに継続できない と言う場合にはモチベーションの問題になるが,こはこれでまた別の話になる。その道の達人というのをいかに見つけるか,がポイントになるような気がする。