2008年12月27日土曜日

他人の評価が本当の評価

 人間だれしも自分が可愛いので、どうしても自己評価は客観的な評価よりも高くなる。一種の「うぬぼれ」ってだれしもあると思うのだが、そんなときでも自己評価の8掛けぐらいが大体世間相場ということになりそうだ。だれしも自分はsomethingではないかと思いたいのだが、どういうわけかそう願えば願うほどnothingになっていくんだなあ…。

 「愛」とか「真心」とか…抽象的で難しい。すべてが数値化できたならば…きっと味気ない世界にはなるかもしれないけれど、その分だけ「悲しみ」や「摩擦」などは減っていくのかもしれない…。だれもがその場その場で力を尽くしてはいてもやはり数値化できない部分で「行き違い」はどうしてもでてくる…。難しいなあ…。

2008年10月23日木曜日

他人との出会いは自分を知る手がかりとなる

 かつて日本ばバブル真っ盛りの頃、「数合わせ」のために、スタジオを借り切っての「合同コンパ」に駆り出されたことがある。バブルであるからして、学生といえでも全員ブランドもののスーツを着ている中で、私は一人ジーパンにTシャツ。しかもテニスはやるけれど軟式テニスだったし、スキーはやるけれどシュテムターンまで。スキーのロッジで男女の会話などするよりかは温泉でくつろぎたい…というタイプなので、いわゆる女子大生との合同コンパというのは非常に相性が悪い。
 しかも一番苦手なタイプばかりの(当時の)「バブル風色彩」のドレスで着飾った女性たちとの出会い。あまり楽しくない。

 しかしそれでも「場」の雰囲気からして黙っているわけにもいかないし、自分はどういう人間かということを最低限は周囲にアナウンスしておかなければならない。「数合わせ」で来た…と正直に語るのも悪くはないが、あまりに幼稚な対応であって、一応20歳を超えた人間どうしが貴重な時間を費やして集まった空間ということでそれなりにポジショニングをとり、「私は積極的にビンゴなどには参加しませんが、それはいろいろ理由がありまして」というのを暗黙のうちにアナウンスしておく必要性はある。また一応化粧などいろいろ手間をかけていらっしゃったであろう女性陣にも非常に失礼な話になるので、最低限の会話もこなすことが必要。その際、相手が自分を「ださいわね」(当時の流行り言葉だった…)と思っていようがいまいが、同じテーブルについて食事をしている以上は最低限の自己紹介も必要。

 ということで場違いでお金がもったいない会合ではあったがあれから○○年が経過し、一つわかったのは、やや苦痛ではあっても見知らぬ他人と会うことで「自分がどういうスタイルを通そうとしているか」「自分の長所はなにか」「自分の短所はなにか」と他人と自分を比較する一つの機会になるということだ。これって大事で、「場違いな場所」には最初から行かないにこしたことはないが、かといってそういう場所に遭遇したときには、「こういう雰囲気の中で自分について的確なアナウンスメントを出すには…」とあれこれ工夫をすることそのものはけっして無駄ではないということ。もちろんバブルの時代ははじけてしまったので、いまやカラオケが嫌だとかパーティが嫌だとかいろいろあるのだろうけれど、嫌な集会に参加しなければならないときにはそれなりに「自分をわきまえる場所」として学習することはできる。

 人に会わないですませる…というのも不可能ではない時代だが、しかし会社づとめをする場合には、個人のパーソナリティが人間嫌いだろうとなんだろうと集団作業を余儀なくされることに変わりはない。だったらむしろ積極的にそうした「場」を活用してみることを考えてみるのも悪くはない。

2008年10月15日水曜日

長いものには「巻かれたふり」をする…

日本社会として,長生きをしたければ「長いものにはまかれろ」ということになる。まさか与党政治家に正面きってたてついたり,キャリア採用の官僚に暴言を はくような社会人はあまりいないと思われるが,なんだかんだとはいっても,政治家もキャリア官僚も巨大な権力を持っているのでたてつかないほうがいい。

 長いものには上司と部下,株主総会での株主と取締役会といった力関係が如実に現れるすべての場面で「強いもの」が包含される。マスコミが揃った記者会見 で「ぶちきれるセレブ」というのも「長いもの」にはまかれてはいないが,そうしたマスコミを敵に回すような振る舞いが許されるセレブというのは私の知るか ぎりでは内田の裕也兄貴ぐらいのものやはり長い物に巻かれるに如くはない。

 とはいえ,心底すべて「まかれる」と理想やら理念やらもすべて崩壊してしまい,人間として大事なものを失ってしまうのも事実。この諺を実生活に適合して いくのだとするならば,「長いものには巻かれたフリをせよ」ということになる。表面的・形式的には頭を下げても魂までは売らなければいい…。大人の知恵であ ると同時に,現実の世界で生き延びつつ,さらに理想や理念を貫くのであれば,生活や人生のすべてまで長いものにはまかれちゃいかん…という法則だ。

プロセスの変更

同じような結果を何度も味わっているとそのうちに学習性無気力感という状態に陥り次第に勉強も努力もしなくなってくる。ということで勉強嫌いの人が増えて くるわけだが,そうしたときにはやり方(行動)を変えるというのが一番効果的。結果が安定してくると周囲も「○○ならばそこそここまではやるだろう」とい う予測が出てくるので一定の安定感も出てくる。一発逆転というのはビジネスでも学習でもちょっとありえない。安定した結果を出すにはやはりプロセスを変え ていくのが一番で,プロセスそのものが理解できていない場合には,達人からやり方を教えて貰うのが一番だろう。最善のプロセスを教わったのに継続できない と言う場合にはモチベーションの問題になるが,こはこれでまた別の話になる。その道の達人というのをいかに見つけるか,がポイントになるような気がする。

独裁者には近づきすぎない…

ローマ帝国以前より「独裁者」というのはたいてい何処にでもいる。で,どうしても一部の世代になると「○○の独裁はおかしい」「不公平だ」などという不平 不満がでてくるのだが,いやなに,独裁主義であろうと民主主義であろうと不平等や不平不満はでてくるので,これはまあ,理想主義と現実主義との相克という 見方もできなくはない。

 ただし独裁者が権勢をふるっている場合,どんな組織形態であれ,「近づき過ぎる」と必ず最後は運命をともにして転落する。たとえそれが株式会社の社長な りオーナーなりであっても「権力はいつかは滅ぶ」のであって,未来永劫に続く権力というのは今の所世界史の歴史には刻まれていない。多少は,「生き残り」 のために歩み寄る必要性もあるが,独裁者に近づきすぎた人,最後は結局,共倒れになっちゃうんだなあ,これが。

 政治家の世界や株式会社,あるいは宗教団体あるいは労働組合,さまざまな団体があるが,どこの団体のそういう組織形態であれ,「独裁者には近づきすぎるな」,これは最大鉄則ということになる。